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【Guardian】ブライアン・メイ インタビュー

2010年9月のThe Guardianにおけるブライアン・メイさんのインタビュー。

 ブライアン・メイが――ニュース!――ウェントワースのゴルフコースから程近いサリーに住んでいることは、まったくもって予想の範囲内と言えよう(品の良いロックスターが他のどこで暮らすと?)。ただし私のように、今年上旬のキツネ狩りの問題を巡る保守党の議長との公開討論の中でメイが"田舎で暮らしている"と主張したことを思い出した場合は除くが。うーむ。サリーのこの一帯がそう田舎でないことだけは確かだ。庭は広くツツジの茂みは高いが、トラクターはチェルシーの類*1のみで、唯一の門は電動の錬鉄製で足元にイニシャルがあしらわれている。

 メイが30年間所有するこの家は、板張りの部屋の数々と大ホールに接合するギャラリーを備えた、羨望を煽るアーツアンドクラフツの屋敷だ。特定のロックスターが成功した場合に手に入れることができる特定のライフスタイルのシンボルとしてはかなり上等だ――その家の中で私が会った最初の人物には劣るけれど。メイの従業員である彼は、自分の仕事は「ローディー兼土地管理」だと話した(私はこれがとても気に入った。頭の中で、月曜にはスピーカーを、火曜にはシデの若木を担いで運び、水曜には二、三個のギターを磨いてからクロッケーの芝生の追い蒔きをする彼を想像した)。ブライアンはどこに? 理想としては、彼はどこかのタワーでボナムズのカタログに目を通しつつ『オペラ座の夜』を聴いていることだろう。深い赤紫色をしたヴェルヴェットのドレッシングガウン姿で、ポケットからは巻き毛を梳かすための幅広の櫛が覗いているという具合だ。けれどここは理想の世界ではなく、ローディー兼管理人は家の裏からブライアンのオフィスと中央制御室を兼ねている大きな小屋――あるいは小さなガレージかもしれない――に私を案内してくれた。そこで、ありふれた古い黒のジーンズと、もし私がコンタクトをつけていなければテムズ川に浮かぶ二隻のクルーズ船と見紛いそうな大きくて白いスニーカーを身につけたその人を見つけた。

 「こんにちは」とブライアンは言った。最初に意識が行くのは彼の声で、それは予期しないほどやわらかで女性的であり、そして結構、あー、抑揚に乏しい(その後私は、たとえ何かに熱狂している時でもメイの口調はうんざりして聞こえるのだと知ることになる)。彼は著書『A Village Lost and Found』のアメリカでのプロモーションから戻ったばかりで疲れているのだと私に話した。これは立体写真家T・R・ウィリアムズによる先駆的な作品のコレクションをまとめた本で、メイが手ずからデザインした組み立て式ビューアーのおかげで読者は1850年代の村の暮らしを美しい3-Dで見ることができる(彼は立体写真の大ファンであり、立体ダゲレオタイプの本格的なコレクターだ)。疲れたとはいえ楽しい時間だったのだろうか?(私は後述のブログを読んだので楽しんだことは承知だった。)「ええ、素晴らしかったよ」と彼は答えた。「ほら、見てみて」彼はプラスチックのビューアーとその本を私に手渡した。するとどうだろう、小さなコテージとスモックを着た少女が突如鮮明に目の前に現れた。まるで魔法で、私は子供に戻ったような感覚になった。「そう言ってもらえて嬉しいよ!」とブライアンは喜んだ声(に近いもの)を出した。

 見事に造り上げられ本物の天文台まで置かれた彼の庭園を通り過ぎて(メイは天文学のPhDを持っている。30年前にクイーンとして生きるためになげうった博士論文を彼は2007年に再開した)、私達は家に戻った。中に入ると彼は写真撮影の準備にかかったので、私には少しうろつく暇ができた。彼が最近はアニタ・ドブソン(又の名を『イーストエンダーズ』のアンジー)と共にロンドン西部にある自宅の方で多くの時間を過ごしていることは知っていた。とはいえこうも、なんというか、あちこちに物が溢れている様は少々驚きだった。まるでおばあちゃんちを大きくしたような、物が蓄えられる一方の家という感じだ。仏像、中国の龍、ブライアンの写真、ブライアンの等身大パネル、キャンドル、ペンギンのぬいぐるみ、スターウォーズのフィギュア、バスルームギフトセット(箱に入ったまま)、スヌーピーのゼンマイのおもちゃ……。空間全体が装飾されている。壁には当然のようにゴールドディスクが飾られていたが――私は最初興奮したものの、その後自分が人生のどこかの時点でクイーンのすべてのアルバムを持っていたことに気付いて顔から火が出るほど恥ずかしくなった――ダン・デアの漫画本や、海辺で縫い物をする人魚を描いた大きな絵画もかけられていた。ギャラリーの設えられた広大なホールから奥へ入ると、グランドピアノと広々したテーブルが置かれたダイニングルームがある。そこにあるお祝い用のテーブル飾りをじっと見た途端、最後にここで誰かが食事をしたのはクリスマスではないかという感覚に襲われた。

 しばらくすると悲しげな声で私の名を呼ぶ声が聞こえたので、私は写真撮影に使っている板張りの部屋に入って行った。彼はラップトップで自身の写真の数々を集中して見つめていた。写り方が心配で――「落ち着いた風に見せたい」と彼は言った――私のアドバイスが欲しいらしい。私は彼の肩越しに覗き込んだ。はあ。これは難しい判断だ。なぜなら彼は、彼のキャリアのどのステージにおいてもほとんど同じ見た目をしているのと同様、すべての写真でまったく同じに見えるのだ。それをどう切り出そうかと考えていると彼が振り向き、そのとき私は気付いた――ええっ――彼がやたらに巨大な眼鏡をかけていることに。彼のものだろうか? まさか違うだろう。アニタのものかもしれない。彼はふざけているのか? 違う。大きなフレームの奥の彼の表情は至って真剣だ。なんてことだろう。笑うわけにはいかない。だけど堪えるのが大変だ。彼はまるでディアドラ・バーロウか、シットコム『ギミー・ギミー・ギミー』のキャシー・バークのようだった。

 その瞬間に、我知らず、私はブライアン・メイを大好きになり始めた――それはおそらくいいタイミングだった。やっとキッチンに行って話を始めると(アイロン台が出ていて居心地のいい空間だが、一方の壁にフラッシュ・ゴードンピンボールマシンがあることは付け加えなければならない)、これが容易い会話にならないことは明らかだった。メイは真っ当な愚痴を愛し、物事を深刻に捉えすぎる。それに、一度ならず私に告げたとおり、彼はジャーナリストをひどく嫌っている。「メディアはなんでもありだからね」と彼は言う。「やることなすことが非難される。そういうのが大好きで、人が間違いを犯すのを待ってるんだよ」彼は私に目を向けた。「というか……僕はどうしてまたインタビューなんて受けてるんだろう?」私は彼に今一度、クイーンのミュージカル『ウィ・ウィル・ロック・ユー』のミート役オリジナルキャストだった歌手のケリー・エリスの『Anthems』というアルバムを彼がプロデュースしその宣伝に協力していることを思い出せた。「そうだった」と彼は言った。「ケリーのためだ。素晴らしいと感じるアルバムを作るために随分時間と手間をかけてきたよ」

 なぜ彼女なのか? プロデュースしようと思えば候補は大勢いるはずだ。「そもそも以前彼女がミート役のオーディションに来た時に仰天させられたんだ(原注:驚くほど以前だ。『ウィ・ウィル・ロック・ユー』は8年経った今もドミニオン劇場で好評を博している)(訳注:ドミニオン劇場では2014年に12年のロングランの幕を閉じた)。僕は単に彼女のファンなんだと思う。最高に魅力的な歌声と、歌手には重要ながら滅多にお目にかかれない情熱を持ってるんだ」

 彼女は助力を喜んでいることと思うが、とはいえ一日中彼女について話すわけにもいかない。けれど、問題はどこから始めるかだ。近年メイに対する世間の評判はがらりと変化した。かつては最盛期をとうに過ぎたバンドの物腰柔らかなギタリストとしか思われていなかった彼は、今では"世界一気難しいロックスター"と同義と見なされている。これは猛スピードの車の前にパパラッチを投げ飛ばすようになったからではなく、2006年に執筆を始めて定期的に更新している彼のブログ、『Brian's Soapbox』によるところが大きい。プーター氏*2と『フォーリング・ダウン』のマイケル・ダグラスを掛けあわせたような面白い読み物だ(彼には重要でない単語まで大文字にするという悪癖があるけれど)。時には彼は喜色満面で、『ブライ』または『ドクター・ブライ』と署名してキスを付け加えることもある。しかし多くの物事に腹を立てもする――喫煙、eBayで彼のサインを売るファン、オーバーヒートしたコンピューター、科学の教育レベルの低下、アニマル・ライツについて彼と意見を異にする人々。

 数年前のある記事で、メイは彼のツアーマネジャーに敬意を表するためのディナーにて彼、ブライアンが披露したスピーチを誰も聞いていなかったことに不満を述べた。なんと失敬な。さらに悪い事に、マッドネスのシンガーであるサッグスは彼とアニタの髪型(二人は以前似た髪型をしていた)をジョークのネタにした。「笑わせてくれるね」とブライアンは書いた。「人には時々本当にがっかりさせられる」。より最近だと、彼のチャリティー団体『Save Me』がキツネ狩りの禁止法が次期保守党政権に覆される事がないよう闘った際に、農業コミュニティーは「温室育ちの」「見るに堪えない、傲慢で、思い上がった洟垂れ小僧」であるロックスターからレクチャーを受けたりはしない、と発言したレスターシャー郡議会のリーダーを非難した。

 「自分の評判については心配してないよ」私がこの話題を出すと彼はそう言った。「だけど活動は僕を変えた。決して見なかったことにはできないもの(原注:動物虐待の映像のこと)があるからね」 人生でずっと保守党に投票してきた彼にとって、この問題に対する英国保守党員の決断を知ることは”ショック”だったようだ。「実際は激怒したよ」 ならば連立政権*3はせめてもの救いとなったのだろうか? 「なにもはっきりとはしてない。自由民主党キツネ狩りについて意見が割れてるんだ。選挙の前に数人と会った時は混乱したし、今でも混乱してると思う。この問題に関して議院は均衡が取れているから現時点ではなにも起きていないけど、結果がどうなるかは誰にもわからないよ。ずっと手をこまねいているカントリーサイド・アライアンス*4にとっての最悪の事態は投票になって負けることだろう。彼らはそんなリスクは犯さない。だけど彼らが自信を持ち始めたらいつでも起こりうることだ」

 私はなぜ今になって彼がこのような行動をとっているのか未だ戸惑っている。キツネ狩りは数百年にわたり行われているのだ。彼は労働党が政権につく以前は運動を起こさなかったし、これまで保守党はプロのブラッドスポーツ以外には手を打ってこなかった。けれどこれは土壇場の方向転換ではないと彼は主張する。「自分の夢を実現させたら人生の一年間を動物達の暮らしの改善に捧げるとずっと心に決めてたんだ」 きっと彼は憎悪のメールをたくさん受け取っているだろう。「そうだね。フェイスブックは悪夢だよ……。大変だったし、ある時点でとても気が塞いでしまった。すっかりヘイトに支配されてしまって、そこから離れて生活を立て直さないといけなかったんだ。とても破壊的だった」 では、政府が将来投票を行うべきだと判断したら彼はどうするのだろう?「また飛び込むさ」と彼は溜息を吐く。「どうしていかれた不良少年達はクリケットのバットで狐達を殴り殺しに行きたがるんだろうね。僕にはどう頑張ったって理解できない。本当はスタジオにいたいよ。ここでこんなくだらない事をしていたくない」

 メイはロンドンのハンプトンで育った。彼の父親は製図工で、息子が初めて持つエレキギターの製作に力を貸したことで有名だ。1971年頃に彼はQueenの他のメンバーに出会った。当時全員がロンドンの大学生だった(シンガーのフレディ・マーキュリーの場合は美術学生)。メイと会った今、マーキュリーと一緒にいる彼を想像するのは難しい。彼はとてもストレートで、ロックは当時男らしさの塊であり、マーキュリーはキャンプが市民権を得るずっと前からキャンプだった。「音楽のことしか頭になかったよ。僕らは互いを通して自分を見てた。常にそうやって生きてた」 今はなきケンジントン・マーケットで彼は初めてフレディを見かけた。「彼はエドワード時代の服を着て、手にはポンポンを持ってうろうろしてた。当時を想像してごらんよ。ロバート・プラントの写真を見てごらん、美しく輝く素敵なカールをさ。僕らも同じスタイルだったんだ。ロックというのはショウだった。ケンジントン・マーケットでは洒落たメトロセクシャルが流行ってたんだよ。誰がゲイで誰がそうじゃないかなんて見分けがつかなかったし、なんでそんなこと気にする? それがクイーンを駆り立ててたんだ」 マーキュリーがバンドに加入すると――彼は他のメンバーを自分こそ適切なフロントマンだと説得した――リハーサルの間彼はよく走り回り、狂人のように叫んだ。「怖かったね。(彼について)僕らは確信が持てずにいた。だけどワクワクしたよ。スリルがあった」

 名声は比較的すぐに訪れた。彼らは1975年にはザンドラ・ローズの衣装を着てアメリカのライブでメインを務めていた。現在メイは7500万ポンドの財産を持っていると言われている。彼と富との関係はどんなものだろう?「単純明快だよ。始めは金がなくて、それを気にかけもしなかった。それから少し財産ができて、どっちにしろ大して気にかけはしなかった」 無一文だった頃のことは思い出せるのだろうか?「うん。人生で一番幸せな時期だったかもしれないよ。未来の妻(原注:クリッシー・ミューレン、彼の三人の子供の母親)とこのテーブルくらいの大きさの寝室兼居間で暮らしてたんだ。レトルトのタラばかりの生活で、ガスコンロは一口だけで、人生になんの問題もなかった」 もう銀行の預金残高を確認する必要はないと感じたのは何歳の時だったのか?「少しも金の心配をしないなんて境地に達することはないと思うよ。言っておくけど金を使い果たすのなんて簡単なことなんだ。名前を挙げるつもりはないけど、僕と似た立場で今の暮らしを続けるために始終働いてないといけない人々もいる。僕は今でも変な癖があってね、時々食事にお金を使いすぎなんじゃないかって不安になるんだ。とんでもない額じゃないかって。素敵なダゲレオタイプと出会ったらいくらでも出すんだけどね」

 彼は有名になるために"こうなった"わけではないのだと示そうと気を配っていた。彼は成功を求めたのであり、彼が主張するには、その二つはまったく別のものらしい。 「有名であることにはたくさんの不利益な点がある。『Xファクター』*5の問題点はそこだよ。名声は素晴らしいものでどんな代償を払っても追い求めるべきだっていう見方を広めてる。実際は誰もがひどく失望することになるのにね」 私は有名な人々はみんなそう言うと彼に伝え――どうしたわけか彼は少し驚いたようだった――それが若干苛立たしいと話した。まったく! 真面目な話、彼の人生のなにがそう酷いというのか?「人はこの身体で生きることがどういうことか理解してない。色んなことがあるんだよ。誰かが近づいてきて自分に話しかけようとしているのが見て取れると、さて、どう出るだろう、と考えるんだ。『お忙しいところすみません。あなたの音楽がとても好きで、1974年に自殺を思い留まらせてもらったんです』と言ってくれる人と握手をすることもある。素晴らしいよ。だけどまた別の人からは『あなた、あのグループのあの人?』と話しかけられて、こんな会話に割く時間はないぞと思う。それに著名人を敵視する人というのもいて、『うちの8歳の娘があなたのことを大好きでね、私はゴミだと思うけど』なんて言われる」

 それならばなぜ目立たない工夫をしないのだろう? 私は彼の家に来るにあたり髪型については触れないと決意した――車の中で「髪から離れて!」と自分に言い聞かせ続けたのだ――けれど聞いてしまった。なぜ髪を短くしないのか……つまり、変装として。「そうしたらとても間抜けに見えるだろう?」と彼は答えた。皮肉を口にしているとは思えなかった。

 報道陣については、喋ってすっきりした方がよさそうだ。「最悪なのは離婚のときだよ。彼らは夫婦の不仲の気配が大好きなんだ。元妻(原注:彼とミューレンは1988年に離婚した)と子供達にとってはすさまじく徹底的な苦痛だった」 マーキュリー(エイズの合併症で1991年に亡くなった)の発病の際はもっと酷かったのでは?「彼の具合が悪かったときはトイレの窓からカメラが突っ込まれてた。だけど僕らは彼を守るために相当よくやったよ。彼を取り囲んでね」 しかし、彼を失うことはきつかったという。「どのメンバーの最初の結婚よりも長くグループは続いてたんだ。いや、それは間違いかな。とにかく僕らは信じがたいほど緊密な関係だった。乗り越えて自分達を立て直すのに何年もかかったよ」

 他の2人のメンバーとはどのくらいの頻度で話をするのだろう? クイーンのベースプレイヤーであるジョン・ディーコンは1997年以来クイーンとして演奏していない。「ロジャー(・テイラー、ドラマー)とはよく話すよ。だけどジョンとは本人が望んでないから話してない。悲しいけれど彼の希望だから。彼が隔絶を選んだんだ。僕はその選択を尊重してるよ」 彼らは仲違いしたのだろうか?「いや、一度もそこまでは……当時は関係が緊迫したけどね……」 まあ仕方がない。話す以外にもコミュニケーションの手段はある。8月19日の木曜日、メイはブログに『ハッピーバースデー、ディーキー! ブライ』というメッセージを投稿した。

 私が去る時間が来た。ロンドンまで彼を送る運転手が到着したのだ。見るからに最先端のスタジオを抜けて外へ出て、再び庭を通り過ぎると、メイはそこで働いている女性に笑顔を向けた。彼は私が到着したときよりもほんの少しだけご機嫌に見えたが、長くは続かないのではと私は懸念した(案の定、次に私が彼のブログをチェックすると、ブライはその他の物事と共に連立政権の動物達に対する姿勢に触れていた。彼が『おそらく我々がこれまでで目撃した中で最も冷淡』と書いているのを読んで、彼の中の歴史は少々当てにならないと私は思った)。私たちは挨拶のキスを交わし、そして彼は親切なことに、敷地の端まで歩いて2分しかかからないにも拘らず、運転手に私を送らせると言い張った。それで、恥ずかしながらそうすることにした。ドライブの終わりに私が車から飛び降りると、背後の門は見えない手で操られているかのように滑らかに閉まった。きっと私の姿が監視カメラに写っていることだろう。振り返って手を振るべきか? そうしてみたい。しかし最後には私は歩き続ける事に決めた。笑顔は外の世界のために取っておくことにして。

*1:チェルシー・トラクターは都会で富裕層に好んで使われるSUVや大型四駆の俗称

*2:コミックノベル『The Diary of a Nobody 』のキャラクター

*3:2010年のイギリス総選挙において保守党と自民党は連立した

*4:キツネ狩り禁止法に反対する組織

*5:イギリスのリアリティ音楽オーディション番組