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The Unbelievable Story Of Ryan Coogler


2013年、『フルートベール駅で』公開直前のクーグラー監督のインタビュー。元記事には高校時代の写真もあります。

 

 

 本人はあまり話題にしないが、初の長編映画『フルートベール駅で』を作る以前も制作中も、ライアン・クーグラーは青少年ガイダンスカウンセラーとしてサンフランシスコの少年施設でも仕事をしていた。トラブルを抱えたベイエリアの青少年のためのその施設で現在27歳のクーグラーはカウンセラー兼警備員を務め、昨年冬のサンダンスで賞をかっさらって名のある若きフィルムメーカーという稀有な地位に躍り出た後でも、オークランドの故郷の街の向かいにある少年施設にいまだ籍を置いている。映画の宣伝活動でしばらくそこで仕事をしていないとはいえ、彼は「できれば早く戻りたい」と言う。

 『フルートベール駅で』はオスカー・グラントの人生最後の日を描いた作品で、2013年のサンダンス映画祭でグランプリと観客賞を共に受賞した。グラントはオークランドに住む22歳の青年で、2009年のニューイヤーズイブにベイエリアラピッド・トランジット(BART)の警官に推定有罪と権力の誇示による争いの中で撃ち殺され、その様が携帯の動画で撮影されて地元での暴動を引き起こした。過去に『Friday Night Lights』に出演し今作が出世作となるであろう卓越した演技を見せるマイケル・B・ジョーダン演じるグラントは刑務所に出たり入ったりで、彼が真っ当に生きることを望んでいる愛する母親(オクタヴィア・スペンサー演)、ガールフレンド(メロニア・ディアス演)、幼い娘と共に生活を立て直そうと頑張っていたところだった。
 グラントを描く上で、クーグラーほどに誠実で、直感的で、心に刺さる映画を作りうる人間は他にいないように思える。彼は題材にした人物の悲惨な短い人生を鏡写しにしたような人生を展開してきた。
 どんな高校生だったかクーグラーに尋ねると、彼は微笑んで首を振り「大したことはなにも」と答えた。セントメリーズカレッジ高校のアルバム(2003年卒生)を紐解いてみると彼がとんでもなく謙遜しているのがわかる。彼はフットボールチームのスターキャプテンで、ホームカミング・コートに選出され、ベストスマイル賞とベスト体格賞を受賞した。
 我々は金曜公開の彼の映画のプロモーションツアーの最終地点であるミッドタウンホテルで席についていた。たまたま彼と同級生だった私の友人から入手したアルバムは懐かしいサプライズだった。「すごいな」と彼は笑いながら言う。「全然覚えてないよ」
 ページを繰るとクーグラーの顔が輝き、彼は婚約者のジンジーを招き入れて二人で懐かしさにくすくす笑った。忘れ去っていた受賞についてはスルーし、写真に写っている他の子供たちの一部に話題を移す。高校時代のチームメイトや親しい友人たちで、クーグラーはオスカーの友人として彼らを映画にキャスティングした。彼はドレッドヘアのグラントの友人・ジェイソンを演じたケニー・グラムを指差し、続いて女性のクラスメートに触れた。彼女の五歳の息子に先週の独立記念日バーベキューで会ったという。
 オークランドともう一つの子供時代の住まいであるリッチモンド近辺には大勢の友人がおり、彼は地元を離れるつもりはない――地元が彼を離すこともないだろう。
 ディアスは映画制作中の彼を「遊び場にいる子供みたいだった」と言う。

 BARTが射殺した時グラントはクーグラーと同い年で、彼が事件を知って最初に考えたことの一つは「自分だったかもしれない」だった。成長に伴い恵まれない青少年に何が起こりうるかを外部から認識したとすれば、少年施設での仕事は司法制度の内部にどのような狂気が広がっているかを教えてくれた。街には少年犯罪者用の包括的な拘置所がそこだけだったため、その施設には7歳程度の幼い子供もいた。「キャンディーを盗めば捕まってそこに入れられる可能性がある。3、4人を殺せば、やっぱりそこに入れられる」と彼は言う。
 青少年ガイダンスカウンセラーとしての業務はたくさんあった。
「僕らは子供達と近い距離にいる立場なんだ。彼らが起床するときそこにいて、身の周りのことをしてるか、衛生的な責任を果たしてるかを確認したり、ちゃんと掃除をさせて学校に行かせて、確実に食事をさせたり保健室に行かせたり、色々する」クーグラーは今でも勤務中かのような口ぶりで職務の長いリストをすらすらと挙げる。
「僕らは彼らの話し相手でもある。精神学者や心理学者じゃない、プロは別にいるからね」と彼は付け加える。「僕らは話をするためにそこにいるんだ。サポートするためにそこにいる。彼らの生活の中の大人の役割なんだ。それに彼らの安全を保つのも仕事だった」
 クーグラーはそれがオスカー・グラントの映画を作りたいと思わされたきっかけだと話す。都会の子供達や刑事司法制度に対する人々の見方に影響を与えることができるかもしれないという思いだった。もしかしたら、あの非道な行為や、オスカー・グラントやトレイボン・マーティンのように武器を持たない黒人の青少年が黒人の青少年だというそれだけの理由で争いの中射殺されたときになされる報道に再び関心を向けることができるかもしれないと。「たくさんの誤解、たくさんの感じ方や視点から生じるものだという気がするんだ」と彼は説明する。

 グラントが殺され事件を収めた携帯電話の動画が明るみに出た後、オークランドでは暴動が起き、彼を撃った元BARTの警官であるヨハネス・メサリーが過失致死として下った2年の判決の半分も刑に服さないうちに釈放されると暴動は再燃した。
ベイエリアは政治的に熱のこもった土地なんだ」とクーグラーは言う。「多くの面で圧倒的にリベラルだ。だからこそオバマの当選直後にオスカーの身にこんな事が起きたときかなりの衝撃が走ったんだと思う。多くの人のアイデンティティが揺るがされ、それを正当化したがった」
 クーグラーはとてもエモーショナルだが、見るからに怒れる男というわけではない。彼は地元近辺での暴動には参加せず、代わりに深い思考を作品へと向けた。のんびりとしてあたたかく、同時に熱情的でいることが可能だというのなら、彼はその代表例だ。
「僕がこれまで作ったどのプロジェクトも感情を動かされたところから来てる」と彼は説明する。「教師からの課題で書いたものも遠くはない。物事や物語に感情を動かされた場合、僕はそれについての映画を作ることである意味心が晴れるんだ」

 現在のキャリアの到達点を考えるとクーグラーは驚くほど若いが、ここに至るまでの道程は長く思いがけないものだった。
 数学と科学のエキスパートだった彼はフットボール奨学金でセントメリーズカレッジへ進学し、化学を専攻して卒業と同時に医学部に入る予定だった。しかし化学の研究室はフットボールの過密なスケジュールと重なっており、学費を奨学金に頼っていた彼は新しい専攻を選ばざるをえなかった。
 宿命とセントメリーズのカリキュラム・プランナーの要求とが組み合わさり、クーグラーはクリエイティブ・ライティングの授業をとることになった。彼の教授だった作家のローズマリー・グラハムは生徒達に自身の最も心動いた強烈な体験を書くよう求めた。
 このところクーグラーはそのレポートになにを書いたのかを話したがらないが、『フルートベール駅で』がサンダンスで上映される遥か以前のインタビューで、父親が死に瀕したときのことを書いたと示唆している。翌日グラハムが寮の部屋に電話をかけてきたとき、彼は「まずいことになった、なにか彼女が懸念することでもあったのかと思った」という。
 彼女は彼の過去を質すのではなく未来を方向付けたかったのだった。彼は医者を目指していると彼女に伝えたが、教授は彼のエッセイはとても映像的だと話し、脚本家の道を提案した。「当時は脚本がなにかも知らなくて、彼女はどうかしてると思ったんだ」と彼は振り返る。「だからとにかく問題があったわけじゃないことを確認して帰ったんだけど、彼女の言葉が頭から離れなかった」
 数年が過ぎ、クーグラーはUSCの映画学部へ通い始めた。既にスピルバーグやスコセッシ、シングルトンといった主流の巨匠たちのファンだった彼は、ブラジルのクライムドラマ『シティ・オブ・ゴッド』を観て大きな影響を受けたと話す。この作品に「精神が広げられた」と。その空いた隙間を埋めることを求め、クーグラーはフェリーニトリュフォーからアジア映画、ラテンアメリカン映画まで、映画通好みの作品を漁り始めた。それらを学校のライブラリーで観て名人たちからのメッセージに浸ったものだった。
「彼は映画の知識の百科事典みたい」とディアスは言う。「シネマを知り尽くしてるの」

 2011年、フォレスト・ウィテカーの製作会社が伸ばすべき新しい才能を探しており、USCの教授の口添えでクーグラーはかのオスカー受賞者と会えることになった。TVのアイデアならびにいくつもの執筆中の台本の構想について話をする中で、グラントについての映画を作りたいというクーグラーの願望がウィテカーの興味をそそった。彼は突如として若干の資金と力のある後援者を手に入れ、数本の短編映画を作った後に初の長編映画が視野に入った。
 クーグラーは仕事にとりかかり、まずは偶然にもグラント殺害の裁判の陪審員を務めた友人に連絡した。脚本の草稿を組み立てるのに必要な記録、証拠、供述について聞けるネットワークを得たが、彼の思い描く映画を作るためにはグラントの家族の手助けが不可欠だった。
「彼らは不安がっていて、それは当然のことだった」と彼は回想する。「僕の目標は彼らの不安を和らげることではなく彼らと正直に話をすることだった。僕の素性やこの物語を伝えたい理由、何を目指しているのか、動機はなんなのかを知ってもらえるように――僕の動機は金銭とは無関係だったし個人の利益のためじゃなかった」
 それが重要な点だ。『フルートベール駅で』はオスカー・グラントを神聖化し暴虐的な法執行機関の構造を罵る論争ではない。ジョーダンはグラントを親切で、理性的で、自暴自棄で、女たらしで、混乱していて、大麻を取引したり一時的に金銭問題を解決する近道としてスーパーで昔の上司と対決しつつも正しい行いをしようとしている人物として演じている。
「みんながみんな(グラントについての)違う話をしてくれるんだ」とクーグラーは語る。「5人と話せば5つの物語がある。基本は一貫して同じ人物について話していて、それが同一人物だということは確かでも、それぞれ違いがあるんだ。彼について知っていることは人それぞれ違う。彼のガールフレンドは彼のお母さんが知らなかったことをたくさん知ってたし、彼のお母さんは彼女が知らなかったことを知ってたよ」
 浮かび上がったのは、誰でもそうであるように秘密と葛藤を抱えた複雑な若者の人物像だった。映画開始後の3分の2はシンプルな日常風景だ。雑用や家庭内のストレスはとても来たる悲劇の前兆ではないが、すべてを知る観客にとってそれらは悲しい絶対性で覆われている。近所を巡るお別れツアーかのように。
「僕らは限定的な映画を作ったけど、その特殊性を通して普遍的な物事に注目したんだ」とクーグラーは言う。「人は若さというものを知っているし、自分の中のなにかと戦ったりそれが周りの人を傷つけるのがどんな感じか知ってる。母親、配偶者、子供がいる感覚を知ってる。そういった関係にフォーカスした」
「オスカーのことを何も知らなかった人、オスカーのような人のことを知らない人、若いアフリカ系アメリカ人男性と個人的な接点がない人が観てくれればと思う。多くの場合、そういった人々がオスカーのような人々に影響を及ぼす方針を作り、そういった人々がバッジと銃を与えられてオスカーのような人々を守るように言われてるんだ」とクーグラーは続け、強固な断絶の年月を強調する。「多くの場合そういった人々が陪審員として呼ばれる。メディアや映画を通じてしか(アフリカ系アメリカ人との)繋がりがない人々がね。だからこの映画を観て、この青年と共に時間を過ごして、彼らは自分と同じなんだと気付いてくれることを願ってる」

 今作は金銭的に厳しい中二週間で撮影され――予算は100万円未満だった――ハードルがたくさんあった。クーグラーが長編映画の制作に不慣れだっただけでなく、今作はまさに彼とグラントの故郷で作られた映画だった。通りを封鎖する予算はなかったため、静かな環境を保とうとはしたものの見物人がよくいた。何人かの友人を映画に起用するということは――彼らはオスカーの友人役を演じた――固定の見物客がいるということでもあった。
 技術面、論理面、感情面の理由から、撮影の実施がこのプロダクションにおいて群を抜く最大の難関だった。驚いたことにBARTはクーグラーにグラントが殺されたのと同じプラットホームでの映画撮影を許可した。このプロダクションのために深夜に駅が開かれ、クーグラーは本来12時間かける撮影を3分の1の時間に捻じ込まなければならなかった。
「色々な要素があった。たくさんのエキストラ、火器、俳優やスタントへの慎重な割り振り、風が何度も吹き抜けて、動くものがたくさんあった」とクーグラーは振り返る。「電車が行き来してて、時間に追われてた。なにより僕らはたくさんの重要な意味を持つ場所にいたんだ」
 4年以上前に撮られた画質の粗い携帯電話の動画の恐怖を如実に再現する緊迫したクライマックスの舞台であるプラットホームには、金曜の公開を前に現在『フルートベール駅で』のポスターが貼られている。悲劇により損なわれた場所が今では地元のヒーローの作品を飾っているのだ。
 クーグラーはそう呼ばせようとはしないだろうけれど。