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【HUNGER】チャドウィック・ボーズマン インタビュー

役柄になりきることについてや、近年の映画における黒人の経験・文化(ブラックネス)について話しているインタビュー拙訳です。

 

役柄に変貌することをどのくらい楽しんでいますか?
この職業で一番愛している点の一つがそれだと思う。これから演じる人物が何者なのかを解明しようとするワクワク感が大好き。一定の期間を他人になりきって過ごした後に役が抜けて再び自分自身を見つけるというプロセスには引きつけられるものがある。終わると違う人間になってるんだ。

各々の役が自分の一部になるように感じるのですか?
取り入れるものは毎回変わる。たぶんジェームス・ブラウンが一番抜けるのが難しかった役で、お祓いのようなものを経験したよ。でもどの役でも、おそらく以前はその能力がなかったこと、自分の中にあって突然アクセスできるようになったことを利用したり実践したりする瞬間があると気付いたんだ。ある程度役は抜けるけど、演じた人物から学んだことを引き出す場面がある――ジャッキー・ロビンソンの勇気を借りたいときにアクセスできたりね。ジェームス・ブラウンの図太さを借りたければアクセスする。別人の立場になって生活することの美点はそこだと思う――彼らから学ぶことができるんだ。

誰かになりきるというのはヘトヘトになるような精神的プロセスであることもありますか? あなたが演じてきたキャラクターの多くは苦難を耐えていましたが……
それが僕の役選びに一役買っていると思う。役選びにはどんどん慎重になるものなんだ、費やすものの多さに気付くから。役に留まるために一日中平常以上の精神的エネルギーを使っていたということに帰宅して気付く日もある。自分と異なる考え方、違った肉体、違った人生を纏うことは疲労感をともなうよ。感情的にも身体的にも疲弊しうるし、軽いトラウマになることもある。プロセスの終わりには早くその人物という重荷を降ろせる段階まで行きたいとただ願うものだ。限られた貴重な自分の時間がかかっているから役を選ぶときはとても吟味する。最低でも4~6ヶ月をそのキャラクターと共に過ごすわけだから。非常に慎重に決断することだ。

世界、とりわけアメリカが未だたくさんの彼の戦った争いを続けている中でサーグッド・マーシャルを演じる経験は難しいものでしたか? この現状は映画の制作にどれだけ影響を与えましたか?
あの映画は間違いなく我々が生きている時代の影響を受けてるよ。今現在我々の社会にはかなりの隠れた偏見があり、それが日に日にはっきりと露呈していっていることを知りながら映画を作っていることを実感した。それが彼がこの映画の中で立ち向かったものの一種だ――コネチカット州ブリッジポートは南部ではないし、これはあからさまな人種差別ではなくて、なんらかの形で社会の壁の内側に隠れてるものなんだ。それらすべてが制作過程に活気を与えたように感じるし、他の俳優たちに対してもそう。我々は今世界でなにが起きているかを絶えずディスカッションしてた。トランプについては毎日撮影現場で話題になった。彼が毎日なにかやらかすからね。それはこのプロセスの一部だった。サーグッド・マーシャルが暴動に対処するためにコロンビアに行ったことを学び、それはこの映画の制作期間中に起きたような種々の抗議行動や警察の残虐行為とかけ離れてはいないと考えてた。

歴史的、そして現代的な黒人の経験はスクリーン上でどれだけ再現されているでしょう?
ここ数年はこれまでの映画界とは異なっていると思う。黒人のキャラクターがいて、黒人の映画が、黒人のキャラクターが中心の映画がある。耳目を引きたくないからこんなことを言うのはためらうけど。「オーケー、もういいだろう、彼らは輝いてたよ」という風潮になって終わったりしてほしくない。
アメリカの物語はいつだって人種というものにくるまれていて、それを避けて通ることはできない。アフリカ系アメリカ人、ラテン系、アジア系の人々のストーリーを語ることなしにアメリカのストーリーを語ることはできない。歴史は映画で描かれてきたような"白人化"はされていない。これは長いこと問題であり続け、今やっと我々の魂を癒すのに必要な映画が作られる時代になってきたところだと思う。この問題に取り組んでいる映画が成功しているということは人々がその実現を望んでいるということだよね。

メディアでは『デトロイト』『ゲット・アウト』『ムーンライト』のような映画についてや各作品の黒人の経験に対する見方について騒々しく討論されています。ブラックネスの物語を伝える権利を持っているのは誰なのでしょう?
代弁者の信憑性というのは常にジャッジされることになると思うし、白人は『デトロイト』のような物語を伝えてはいけないと言う気はない。あの物語を伝えたキャスリン・ビグローを称えるよ。特にあの物語が彼女に向けたものなのだとしたらね。人は歴史を型にはめようとするし、コントロールするために区分するけれど、それ自体が問題点だ――「これは黒人の歴史だ」とか「これは白人の歴史だ」という風に考えることが。すべてはアメリカの歴史であり世界の歴史だ。
僕は心動かされない限りその仕事はしない。そして他のアーティストたちも同じ事に取り組んでいるという想定を常にする必要がある。キャスリン・ビグローが『デトロイト』の代わりに作ることができた映画はいくらでもあった。同時にエイヴァ・デュヴァーネイにあの作品が与えられれば、キャスリン・ビグローが気付かない物事を彼女なら見つけるだろうという気がするんだ。彼女の生い立ちゆえにね。なぜなら彼女は日常としてあの文化、あれらの問題と共に暮らしてきて、気付かされる必要なんてなく毎日あの中で生活してるんだから。

実際的に、役に心動かされることの必要性は脚本のチョイスをどれだけ左右しますか?
僕にとって大事なのは常に、台本を読んでなんらかの形でそこから離れたときにその役を演じるプロセスが始まるかどうか。最近だとボルチモアにいたときにヴァージニアにいる従兄弟を訪ねたいと思ってトラックを借りに行った。トラックの運転なんて普段はしないよ。でもすごくいい台本を読んだ後で、心の中で『このキャラクターはトラックを運転する』とつぶやいて5時間トラックを運転しようと思った。普通ならしないことをするのは自分の中で何かや誰かを探してるんだ。運転中にそれがあのキャラクターなんだなと気づいたよ。

ブラックパンサーの話に戻りましょう。この役を演じる決め手はなんでしたか?
この場合は特殊な状況だったんだ。出演を決める前に台本を見てもいなかったし今後のことも知らなくて、ただ僕が演じたいと望んでいるキャラクターだということはわかってた。その以前に自分の日記に演じたい役としてブラックパンサーのことを書いて、ブラックパンサーの映画でこれを観たいという物事を書き留めてたんだ。もしブラックパンサーが映画化されるなら僕が演じるべきだと言ってくれる人たちもいて、オファーの電話を受けたときは非現実的だった。祈ったことが現実になったら信じられないという気持ちになるものだよ。ブラックパンサーを演じない選択肢はありえなかったし、求めていたし、望んでいたし、他の人たちも僕がこの役を演じることを望んでくれたような気がした。