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【The Undefeated】ライアン・クーグラーがアメフト競技場で得たもの

ブラックパンサー公開前のクーグラー監督のインタビュー。

 

 

ワイドレシーバーはボールが見えてもいない状況でルートを走る場面がたくさんある。振り向いたときにそこが正しい位置であることを祈らないといけないんだ。チームメイトがきちんと動いていると信頼しなければいけない。ラインマンがブロックしてくれる、クォーターバックが正しい読みをしてくれると信頼しなければいけない。それから……ボールが空中に上がればそれをキャッチしなければいけない。蓋を開けてみれば、それらはそのまま映画制作に繋がっていた。

   ―『ブラックパンサー』監督 ライアン・クーグラー

 

  月曜の夜はライアン・クーグラーにとっての幕開けだ。これには大金が懸かっている――そして彼はそれを知っている。『ブラックパンサー』監督兼共同脚本の彼は、期待を寄せられている待望の作品のハリウッド・プレミアにて、ついに友人たちやキャストメンバーたちやテイストメーカーたち、そして幾人かの批評家たち相手に彼の傑作をお披露目する。
 クーグラーがこれほどのプレッシャーを感じるのは、故郷カルフォルニアオークランドにて高校3年生の頃にマーショーン・リンチと対戦したとき以来と見える。「たくさんのとても優れた選手と戦ったよ」とこの監督は言う。「マーショーンがたぶんその最上位だったね」
 だが月曜の夜は、再び勝負のときだ。

 この新しい映画は我々を架空の地ワカンダへ――そして更に深く、チャドウィック・ボーズマン演じるブラックパンサーの物語へと運んでいく。だがクーグラー自身のオリジンストーリーもまた歴史あるものだ。「多くの子供は苦しむ。おまえは何者だ、何者かにならないと、と誰かに言われるわけだ。『ストリートの人間か? アスリートか? おまえはなんだ?』。僕はその2つの選択肢の中で育った」とクーグラーは言う。「父は少年施設で働いてた。僕が仲間入りすることになれば失望しただろうね」
 ライアン・カイル・クーグラーはブッシュロッドで育った。当時北オークランドの黒人を主とした地域として知られていた場所だ。「学校に通い始めたのが4歳の頃」と現在31歳のクーグラーは言う。「勉強はついていけたけど、他の子供より身体が小さかったから大変だった。いじめられたよ……馴染んでなかったからね。4歳の子供と6歳とでは大きな違いがあるんだ。だから苦労したよ」
 けれどクーグラーの生活は恵まれていた。彼の母・ジョセリンはコミュニティのまとめ役で、父のアイラは保護観察カウンセラーだった。両親共にイーストベイのカリフォルニア州立大学イーストベイ校、当時でいうカリフォルニア州立大学ヘイワード校で教育を受けた。
「僕らが暮らしていた土地には……セクション8の子供たちがいた」とクーグラーはディズニースタジオロットの彼のオフィスで話す。「公営住宅があった……僕らの住んでるすぐそばにね。そこの子供たちとよく遊んでたけどからかわれてた。僕は彼らよりいい学校に行ってたし両親が揃ってたから。馴染めてはいなかったね」

 当時は北オークランドの彼の住んでいた地域には少年アメフトチームがなかった。7歳の頃、彼は近くのバークレー・クーガースに挑戦してみることになった。チーム名がクールだと思ったのと、彼の父がプレイしていたのとは異なるチームだったからだ。幼いクーグラーにとってそのチームはホームのように感じられた。ほとんどすぐに。「僕は活発な子供だったんだ」と彼は言う。「怒りっぽかった。いじめられてたからよく喧嘩してたんだ。それに自分が馴染める場所を見つけたかった。フットボールがその両方に捌け口を与えてくれたんだよ」
 フットボールはクーグラーに心の均衡を与えてくれた。「初めてバークレーでフィールドに足を踏み入れた時のことを覚えてる……『人生が変わったな』と思った最初の瞬間の一つだったね。自分の得意なこと、本当に好きなこと、楽しみにできることを見つけたんだ。居場所があるという感覚だった」その競技にとりつかれたクーグラーはセントメリーズカレッジ・ハイスクール・パンサーズのキャプテンとなり、陸上とバスケットボールでも優秀な成績を収めた。

 彼は優れた学生で、化学を学び医学部に進むことを夢見ていた――プロフットボール選手として成功しなかった場合には。2003年に最終学年に上がる頃には、ハーバード、プリンストンペンシルバニアといった学校からの強い勧誘を受けていた――学業面は申し分なかった。
「身長が足りなかったか速さが足りなかったか、パシフィック10のオファーを受けるには不十分だった」とワイドレシーバーを務めていたクーグラーは話した。「惜しいところまでは行ったけどそこまでは届かなかった。最終学年でケガをして……重要な試合をいくつか逃したんだ。お互いが最終学年のときにマーショーンと対戦するために復帰することになったんだけど、素晴らしい試合だった」それが高校時代の最高の思い出の一つだと彼は話す。「引き分けだったよ」
 クーグラーはペンシルバニアをとても気に入ったが、カルフォルニアのセントメリーズカレッジからは全額支給奨学金が出た。「家の近くにいられたしね」と彼は言う。「それにセントメリーズカレッジはちょうどアフリカ系アメリカ人のコーチを雇ったところで、それが僕にとって大きかった」加えて、現在はヴァンダービルト大学でヘッドコーチを務めるデレク・メイソンが当時セントメリーズの守備コーディネーターだった。「彼は素晴らしいコーチだよ……すごく憧れてた。彼との仕事が憧れだったし、頭のキレる人だと思った」カルフォルニア州モラガへ着くと、学業とアスリート業の難しい両立が始まった。
「ものすごくハードだったよ。常に練習してた。僕はトゥルーフレッシュマン*1としてプレイすることになったから、研究室だとか化学関係のややこしい色々に対処しながらの初めの一年は大変だった。成績が厳しくてはっと気づいたんだ、『今の専攻でフットボール選手でいるのはたぶん無理だ』って。うまくいきっこなかった」と彼は言う。
 彼の親友は会計学を専攻していた。「彼に『ビジネス学科専攻に変えなよ、研究室も必要ないしキャリアに支障ないよ』と言われたんだ。それで専攻を変えることを考えていて……その後セントメリーズの創作クラスをとらなくてはならなくて、そこでローズマリー・グラハムに出会った。彼女は僕の提出した課題のうちの一つを読んで『映画脚本を書いた方がいいと思う』と。それで自分に執筆の才能があることと、自分は映画の作り方を知りたいかもと気付いたんだよ」
 それは2004年のことだったが、チームの総員にショックを与える事件があった――学校がフットボール・プログラムを中止する決定をしたのだ。「衝撃的だったよ」とクーグラーは言う。「アスリート人生は自分でコントロールできるものじゃないんだと気付いたね」
 じっとしている必要はなかった。そのシーズンは好調で、本人が言うように彼は「強敵を相手になかなかの戦いをした」ため、再び誘いを受ける結果になった。ニューメキシコ州立大学、ブリガムヤング大学、カリフォルニア州立大学サクラメント校が声をかけてきた。ディフェンシブバックとして求められたためニューメキシコは除外した――セントメリーにいた頃は彼はレシーバー、ディフェンシブバックとしてプレイし、リターナーも務めていた。
 ブリガムヤングは彼をキックリターナーに欲しがった。だが家に近いサクラメント校の条件がベストだった。クーグラーは家族と親密で、サクラメントなら二人の弟、ノアとキーナンのそばにいられたからだ。彼にとっては良い選択だった――レシーバーとしてプレイする4年の間に彼は112のフォワードパスをキャッチし、1213ヤードを獲得し、6回タッチダウンした。
 とはいえ良かったのはフットボールに関してだけではなかった。「サクステイトには興味深い映画制作プログラムもあった。財政学を専攻して映画の授業もいくつかとったよ」と彼は言う。けれどクーグラーを鍛えたのはフットボールだった。このスポーツはネガティブさへの対処法を教えてくれたし、自信と、これまでにない達成感を与えてくれた。
 ハリウッドに至るまでは。

 フットボールと同じように心の糧になる何かをクーグラーが見つけるのに時間はかからなかった。高校を卒業したちょうど10年後に――在学中はホームカミング・コートに選出され、ベストスマイル賞とベスト体格賞を受賞した――新しいゲーム・プランがキックオフした。
 2013年、彼の初の自主制作映画『フルートベール駅で』がサンダンス映画祭で観客賞とグランプリをダブル受賞した。2009年の大晦日ベイエリア鉄道警察によって殺されたオークランドの青年、オスカー・グラントの人生最後の一日を描いた映画だ。彼の物語は今作以前にはNBC『Friday Night Lights』のヴィンス・ハワード役、そしてもちろん『ザ・ワイヤー』の痛ましい不良少年・ウォレンス役として最も知られていたであろうマイケル・B・ジョーダンによって再現された。
「ライアンは真理(the truth)だ。本人は絶対言わないけどね。彼は褒められるのがそんなに好きじゃないし、控えめで謙虚だからさ。けどライアンは、アスリート的な意味でイケてたんだ」と、クーグラーのお馴染みのコラボレーターであり最近ではロッキーのリブート、2015年のヒット作『クリード』で共に仕事をしたジョーダンは話す。「カレッジでマーショーン・リンチとプレイしたんだぜ――同じチームじゃなくて敵として。彼はサクラメントでいくつか記録も持ってる。ライアンってすごいんだよ!」
 クーグラーは撮影現場でとても競争心旺盛だったとジョーダンは笑って話す。共に映画を作っている間、徒競走やレスリング対決の賭けで競ったのだという。「彼はすべてのプロダクションにおいて俺らのヘッドコーチなんだ。彼から始まって下へ浸透していく。信頼感をくれる人だよ」とブラックパンサーヴィランを演じるジョーダンは言う。「もしも走ってあの壁をぶち破れって彼に言われれば、危険はないんだなって俺は信じる。言われたとおりにするよ。リーダーとしての彼にはついて行きたいって思わされるなにかがある。それは監督として超重要なことだ」

 そして今こそがクーグラーの最大の見せ場だろう。彼は今年最も待ち望まれた映画の共同脚本と監督を務めている――マーベル・サイズの予算とマーベル・サイズの期待を負った黒人メインの映画だ。その喜びは本物だ。
 クーグラーは完璧主義者で、この映画になにが懸かっているのかを知っている。もしも今作がほぼすべての人が期待している結果を出せば――興業収入で成功し批評家に評価され、同様の映画たちにゴーサインが出る道を切り開けば――それはハリウッドに大きな転換が起こる兆しだ。多数の注目が彼に集まっているが、彼は冷静さを保っている――現時点では。フットボールがその方法を教えてくれた。
「これまで学んできたことの多くはフットボールをプレイすることで学んだんだ。キャプテンは時には全く勝ち目のない状況でグループを率いなければならない。毎週対戦相手に備えないといけない。ゲームテープを観て準備をする。選手全員に指示を出す。だけど本番になってみれば何が起こるかはわからない」とクーグラーは言う。「僕は今31歳だ……これは高負荷の仕事だよ。大金や大勢の暮らしを背負っている上、さらに重要なことに、観客の夢と期待を背負ってるんだ。団体スポーツで得た経験がなければこの仕事はできなかったし、今とは違う人物になってたと思う」

*1:新入生として選手登録され、学年もチーム在籍年も1年目の選手。カレッジフットボールでは選手登録できる期間は4年間で、上級生でポジションが埋まっていたり育成途中でまだ試合に出られない場合など、選手登録を後回しにしてプレイ資格を温存できるレッドシャツ制度がある