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アドバイスブログ:あなたは『本当に』映画業界に入りたい?(2006年)

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2006年(ガン監督が脚本家として成功を収めたのち『スリザー』で監督デビューを果たして間もなくの頃)のブログ記事より。近年アドバイスを求められた際に話している内容とは若干違っているように思いますが、興味深いので拙訳を。

 

 僕には脚本家や監督や俳優になるためのアドバイスを求めるメールが週に数十通届く。通常、みんなの希望や夢や目標を応援しようとしているけれど、なんと言ったらいいのかわからないこともよくある。真実は、ほとんどの人は映画業界に入るべきではない、ということだ。この戯言は全員向けじゃないよ。

 この記事で本当にそのリスクを負うつもりのある少数の人たちを励ますことが僕の願いだ。けれど同様に重要なのは、残りのみんなには映画以外の分野でより豊かな生活を楽しんでくれるよう言い聞かせたいということだ。これは友達に対して彼の友人たちと何年間も寝ているアルコール中毒の幼馴染の恋人とは結婚しないように説得するようなものだ。なぜなら、正直に言って、ここハリウッドにいる僕らはイカれた野郎どもの群れで、幸福なのは、金持ちや成功者を含めても僕らの内ほんの一握りの人間だから。

 僕が脚本家や監督、俳優になるためのアドバイスをする前に、本当に映画業界に入りたいのかどうか自分自身と真剣に対話することが重要だと思う。
 以下の質問を自分に問うてみてほしい。

1)執筆または演技または監督することを愛しているか?

 脚本家という肩書きに憧れて脚本家になりたがる人もいるけれど、彼らは実際に書くことをしていない。脚本家は書くんだ。たくさんね。ほぼ毎日。俳優や監督も同じだ。監督は超低予算のショートフィルムを作っているし俳優はローカルシアターで演じている。書いたり監督したり演じることを愛する人たちはチャンスがなければ自分たちで作るんだ。

 誰だって自分がスクリーンに映るムービースターや200人ものクルーを率いる監督になった姿を夢想するのは楽しい。だけどそれは実際に俳優業や監督業を楽しむのとでは雲泥の差がある。

 仮に特別裕福だったり有名ではないとしてもその仕事をする意思がないといけない。結局のところ、この業界に残り、そして楽しんでいる人たちというのは、結果ではなく過程を大切にする人たちだ。

 ロサンゼルスでは悲しく空虚な目をした50歳のバスボーイたちがあちこちにいる。彼らは名声と富という結果を望んだものの、そこへ辿り着くまでの過程を本当に楽しむことができなかった人々だ。

2)自分に才能があると思うか?

 先に書いたとおり、僕はたびたび人に夢を追い、そしてリスクを冒すことを勧めている。実を言うと、強い願いだけでは仕事にはならない

 例を挙げると、僕はロックバンドで数年間プレイをしていて多少才能のあるミュージシャンだった。もし作曲家やポップソングライターになりたいと思っていたらたぶんその分野を追求することもできただろう。だけどそうしなかった。僕は有名なロックシンガーになりたかった。けれど僕の歌は、とてもそれを仕事にするに足りるほど優れていたり独創的なものではなかった。人に「あなたがやりたいことはなんだってできる」と話すのは素晴らしいことではあるけれど、神に与えられた身体能力によって僕には限界があった。プリンス・ランディアン、両手両足のない驚嘆すべき彼は、どれだけ望もうとも、あるいはどれだけ自身の能力を信じようとも、プロのホッケー選手にはなれなかっただろう。そして率直に言って、彼に向かってやりたいことはなんだってできると告げるのは残酷なことだ。なぜならできないのだから。そして僕らだってそうだ。

 自分の在り方は自分が決めるものではない、と言っているわけじゃない。人生は自分で切り拓くことができると信じているし、僕らは大いに自分の意思で成り立っている。けれど人生を切り拓くことには、自分の身体的、精神的、知的な限界を認識するということも含まれる。自分は何者かということと自分の能力の限界を知ることで僕らは真に自由になる。

 僕はかつてエディ・ヴェダーになりたくて、エディ・ヴェダーではなかった。僕はクレイジーなやつじゃなかった。『アメリカン・アイドル』に出演し本気で彼/彼女がパヴァロッティ以来の最も優れたボーカリストだと思っている勘違いジェンダーベンダーたちの一員ではなかった(僕らは一瞬で彼らをイラつかせるだろうね)。だけど、自分の本音と向き合い、歌うことが自分の世界で一番得意なことかと自問したとき、答えはノーだとわかっていた。絶対的に違った。"やりたいこと"ではないからと無視していた他の天賦の才が色々あったんだ。

 色々な意味で僕は青年として通過しなければいけないものを通過し、自分の限界を意識するようになった。だからロック&ロールへの進出は無意味だったわけじゃない(実際、会話から編集までのあらゆることにおいてリズムを見つけるために僕は今でも音楽トレーニングを活用している――映画コンポーザーたちとコミュニケーションをとるのがより容易なのは言うまでもない)。

 一般的に"願望"というのは僕らを幸せにするものとはほとんど関係がないと僕は信じている、ということも付け加えたい。何かを欲するとき、それは僕らが持っていない何かを意味する。つまり必ず自分たちの外にあるものだ。職を選ぶ際、自分が持っているものとそれをフルに活用できる方法を見極めるのはより重要なことだと思う。

3)世界はあなたに才能があると考えるか?

 ビギナーは大概下手くそなものだから、これには時間がかかるかもしれない。もしも自分に才能があると思うのなら少し仕事をしてみるべきだ。自分がどこへ辿り着くか確かめろ。自分の中に才能のかけらが見つかるかどうか確かめてみろ。周囲の人間もあなたの可能性に気付き始めるまでにそう長くはかからないはずだ。真に自分の運命に従っていれば世界はなんらかの形で道を開いてくれると僕は信じている。少なくとも僕らが頑張り続けるために必要なささやかな希望は与えられる。

 僕は音楽をやめて間もなく本格的に執筆を始め、すぐに同級生や先生、コミュニティなどからたくさんの後押しをもらった。小さな新聞や雑誌に作品が載り、コロンビア大学のライティング・プログラムへの入学を許された。在学中にトロマで仕事をし、フィルムメーカーとして生計を立てていた。自分の才能が完全に勘違いなんてことはないとわかっていた。なぜなら僕のしたことは何かしらこの世界の役に立つという客観的、外部的な根拠があったから。脚本を書いたり映画を作ることも大好きだったことを考えると自分がキャリアを積むにはとてもいい場所なんじゃないかとそれによって思った。

 自信は他者の評価を基準にすべきだと言っているわけじゃない。だけど映画業界で実際に暮らしていくという場合、自分に与えられた才能が一番発揮できる場所について自分に正直になることは重要だと思う。

 僕の元妻、ジェナ・フィッシャーの旅路はもう少し冒険的なものだった。彼女は22歳の頃にLAに移住し、『THE OFFICE』のパム役を射止めたのはその10年近く後だった。オーディションに数えきれないほど落ち、パーティーでは女優志望なのだと話すたびに哀れみの目で見られなければならなかった。ジェナは難局をくぐりぬけ続けるためにかなりの自画自賛を必要とした。彼女の持つ"ネバーギブアップ"の姿勢は大いに助けになった。

 けれどジェナにはまた、その時々で彼女が完全にクレイジーなわけじゃないと教えてくれた外部的な根拠があった。ダン・ハガティと共演した安っぽい映画の役をものにしたとき彼女はLAに越して一年も経っていなかった。その一年後、彼女は僕の映画『MIS II メン・イン・スパイダー2』の端役にキャスティングされた(僕らが付き合う前のことだよ)。一年後、アヴァンギャルドな演劇に出ていた彼女を見かけた優秀なエージェントが彼女についてくれた(演技への愛情一心で出演した演劇だった)。その後『スピン・シティ』で台詞が一言だけの役をゲットした。彼女はドラマのゲスト出演やパイロット版の役を獲得するようになり、そしてついに、『THE OFFICE』に出演して急速な成功を収めた。ジェナは上り詰めるのに苦労した。でもとにかくそれは上り坂だったんだ。

 とはいえ、自信と自己欺瞞の間には大きな違いがある。まったく適していない職のために人生の時間を費やしている人はたくさんいて、客観性と一致しない盲目的な自信を基に動いている。彼らはキャリアストーカーなんだと思う。ストーカーが片想いの相手にするように彼らは自分が選んだ職業を追いかけ回す。あらゆる反証にも関わらず、彼らは無情な相手を愛しやがて愛情を返してくれるという希望にしがみついている。僕も似たようなものだったからとやかく言う気はない。

 以前、数年間女優を志しつつうまくいっていなかった女性にキャリアストーカーについて話したことがある。彼女は「うん、でもジョーゼフ・キャンベルは自らの至福を追求するように言った!」と答え、僕は彼女の人生は少しも至福に満ちているようには見えないと返した。至福を追求するなら将来に期待するのと同じく今この場でもその至福を経験しているべきだ。

 あなたがそういった人々の一人なのかどうか、どうすればわかるだろう? そうだね、もしも嘘偽りなく自分に正直になって、自分はそうだろうか、と問いかけてみれば答えはわかると思う。もしも答えが「イエス」でもいいというのなら、そのうち結果がわかるだろう。

 だけどここでの僕のアドバイスは、世界に耳を傾けろ、ということだ。オープンでいろ。あなたの才能はどこにある? 人が価値を認めるのはあなたのどんなところ? あなたが本当に呼ばれている場所はどこ? 僕は世界の何よりロックスターになりたかったけど、言ったように、願望でそれが仕事になるわけじゃない。人生における狭い許容範囲の外へついに目を向けたとき、僕は音楽よりも好きなことを見つけた――脚本を書くこと、映画を作ることだ。脚本家や監督という肩書きは必ずしも愛してはいなかった。僕は、脚本を書くこと、監督をすること、それらが僕の人生にもたらす経験を愛している。

 脚本家になることを望んでいても、初めての映画の現場の仕事で自分に衣装デザインのセンスがあることを発見し、とても気に入ることもあるだろう。

「だけど夢を諦めたくない」とあなたは言うかもしれない。

 夢なんかクソくらえ、と僕は言おう。自分が愛していて、自分を愛してくれることをやれ。ときに『諦める』というのは投げ出すことじゃない――本当の自分に身を任せるというだけのことだ。

 誰かの夢を壊そうというつもりは毛頭ない。僕が本当に望んでいるのは、夢に躓いている人たちがうまくいく新しい夢を見つけてくれることだ。

 そして最後に、下手くそだろうと誰も認めてくれなかろうと、執筆したり演じたり監督することにはたくさんの有益な理由があると思う。ほぼすべての人はクリエイティブな捌け口を必要としている。ただそれで食っていけると期待しないことだ。

4)やり通す意思はあるか?

 よし。それじゃ、あなたは自分が脚本を書いたり演じたり監督をしたりすることが大好きだということはわかった――もしくは、ふん、これらの質問に最初から『経理』を当てはめて読んでるかだ(だとしたらあなたはクソ変人だけど、でもクールだよ)。あなたは自分の才能を信じているし、世界もあなたには才能があると思っている、と考えているわけだ。

 それでもこれはまったくもって簡単なことじゃない。さらに忍耐強くいないといけない。もし本当に経理職の話なら求められるのは他の職業と同等のことかもしないかもしれないけど、まだ脚本家や俳優や監督の話をしてるなら、これらはまったく普通の職業じゃない。

 映画業界におけるキャリアをスタートさせれば、越えられそうにない壁に直面することになるだろう。けれど成功している人々というのはそれに打ち勝っている人間だ。

 忍耐にはこれらが必要だ。 a)時間、b)悪影響を無視すること、c)たくさんのめちゃくちゃなハードワーク。
 説明しよう。

a)時間

 食い扶持を稼げるようになる前に、給仕の仕事をし副業として仕事の訓練をする生活で優に10年かそれ以上は過ぎると覚悟しておこう。もちろん多くの例外はあるけれど、例外になりたければそれを期待しないことだ。

 医者は医学博士になることが叶うまでに医学部に8年間通う。脚本家、監督、俳優になるのにそれより少ないなんてことがあるか? エンターテインメント業界に入りたいと望む人に比べて医者はずっと多くて医者志望はずっと少ない。『演技は脳外科手術じゃない』とはよく言ったものだ。手術よりも難しいんだから。わかった、オーバーに言い過ぎたかもしれない。だけど医者になるより競争が激しいこと、同じだけの技能と知識を求められうることは確かだ。スタジオは新作映画の主演に新人俳優は使いたがらない。あなたが自分のレーザー眼科手術をするのに医大予科の学生を使いたくないのと一緒でね。

b)悪影響を無視すること

 おそらく、映画業界の仕事が憧れの対象であり、そして真に危険を伴う取り組みだという理由で、それらを追求するには信じがたいほどの社会的・精神的な障害物がある。
 悪影響というのは自分自身に端を発する。敏感なアーティスト型の僕は自分自身の恐怖に圧倒されそうになるときがある――白紙のページへの恐怖であれ、危険を承知しながら挑む恐怖であれ、あるいは他人にどう思われるだろうという恐怖であれ。僕は多大な落胆と疑念の時期を経験しうる。これはアーティスという仕事の一部であり一画なんだ。今ではそういった感覚を、毎朝仕事に行くために使うバスに乗り合わせるハンセン病を抱えた浮浪者たちのように扱っている。彼らは僕に向かって怒鳴り僕は最低だと言う。時たま頭に来て愚かなことにやりかえしてしまうこともある。けれど大抵、彼らが喚き散らしているのは僕にはほとんど関係なく、彼らがクレイジーなハンセン病患者の浮浪者たちであることが原因なのだと気づく。彼らはしょっちゅうバスを乗り降りし、僕は彼らがそこにいないときは感謝しようと努めているし、いるときは無視するようにしている。
 そしてもし自分自身の不安感だけでは物足りないというなら、他のすべての人の不安感にも対処する必要がある。先述のとおり、僕の場合幸運なことに世界は初めから好意的な反応でもって迎えてくれた。けれど僕がライティング教室で出会った人の多くはそれでも僕を病気だとか下品だとかあるいは単につまらないと言った。以前動物と鳥を産み始める太った口の悪い女性の話を書いたら、僕のような男の"ミソジニスティックな長ったらしい作品にもはや我慢ならない"というクラスの女性たちから事実状の反乱に遭った(未だに理解できない)。数々の人たちからおまえはアーティストとして稼げもしないのにでかい夢を抱く大勢の人間のうちの一人だとも言われた。

 そして成功を収めれば、このクソみたいな状況は悪化する。スポットライトと共に悪影響はずっと広範囲に、より公的な規模で現れる。生活と作品は一般集団がジャッジするためのネタになる。かつてこそこそ言われたことが今ではニューズウィークの見出しだ。けれどクリエイターとして、僕らは世界に対し自らをオープンにしなければいけない。それがつまり光に付随する闇を受け入れるということだ。

c)たくさんのめちゃくちゃなハードワーク

 身を粉にして働く意思がないのならやめておけ。仮にあなたが有能だとしても、有能でかつ努力家な人々は他にもいる。僕には才能に恵まれながらも途方もない量の仕事をこなす気がないというだけの理由でアーティストを生業にしてない友人がたくさんいる。エンターテインメント業界は仕事にありつくのが世界一大変な業種の一つだ。他の職業よりも俳優になりたがる人間は多い。そして脚本家や監督になることはいくつかの点で俳優よりもなお難しい。なぜならはるかに枠が少ないからだ。その仕事で暮らしていくには自発的に動き仕事熱心でないといけない。

 そして繰り返すけれど、成功すると状況は悪化する。キャリアにはそれが必要だからだ。女優であるジェナは週5日、日に12時間働く。彼女の夜はしばしばトークショーやディナーやアワードショーに奪われる(これらはすべてとてもすぐ過去になる)。週末は即座に写真撮影とインタビューで埋まる。そしてオフシーズンには、映画を作っている。

 僕? 僕が脚本を執筆するときは一日中、毎日書いてる。会議やディナーやショーやインタビューやルーカーからの日に三度の電話やその他諸々という、同様に必要な社交とのバランスをとろうと努めつつね。

 監督をしているときはすべてにおいて遥かに多大な時間を食われる。小さな映画でさえ計画や撮影や会議に優に五か月かかり、他のことをする時間はほとんどない。しばしば日に15~18時間の仕事――俳優や脚本家ならトレイラーでのんびり過ごす時間を含むかもしれないがそうじゃない――15~18時間労働だ。土曜の夜や日曜の午後には自由時間があるかもしれない。けれど基本的には、プリプロダクションとプロダクションの間、監督業が生活のすべてになる。楽しそうだと思う?

 ならたぶん、映画業界はやっぱりあなたに合ってるよ、イカれた野郎め。

 エンターテインメント業界のハードワークぶりやなんかにも関わらず、僕は自分の仕事を愛しているし、業界の人々を愛している。この業界に本気で参加したいと思っているのなら、そして上記のことにビビっていないのなら、そのときはどうぞ飛び込んで。あなたは僕が書いたことには同意できないと感じるかもしれないし、あるいは段々と違う道に惹かれていくかもしれない。それもクールだ。僕はすべての人の道のりは違うものだと信じている。最も深い真実とは自らが見つけるもので、上記は僕が見つけた真実に過ぎない。